昨日・・・・

義父を送り終えました。



(荼毘に付した施設)
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義父は7月の中旬頃から夏風邪のせいか、体調を崩し食事を摂ることが
出来なくなりました。
主治医が往診にて点滴処置をして下さり、体調を戻し掛けているところでした。
高齢ということで、点滴の針をその都度刺すのですが、血管が細くなって来ているので
先日、カテーテル状の細い針を常時体内に差し置く処置をして、さあこれから高濃度の栄養剤等を
摂取し、涼しくなってくる秋に向かって食欲も戻ってくるでしょうとの、ドクターの見解でした。

直接の死因は脳梗塞による呼吸停止、そして心停止です。
看取った家人によると、苦しみもなく、穏やかな終え方だったそうです。
95という年齢から考えても致し方ない最期でしょうか・・・・

携帯が鳴り、家人の震えた声で義父の訃報を知りました。
「落ち着いて聞いて!おじいちゃんが・・・おじいちゃんが・・・」
あとは言葉になりませんでした。
「分かった、分かった、できるだけ直ぐ帰る」

既に白い布を顔にかけられた亡骸の頭の方にララが・・・足元にはコトラが目を丸くして佇んでいました。
ただごとでないことは彼らにも察知できているのでしょう。
でも、いつもの優しい手で撫でられるのを待っているのです・・・・。
泣けました・・・・合掌し、自然に私の口から出た言葉は「ありがとうございました」
しばしの間、恥かしながら、男泣きをしてしまいました。

義父の亡くなった22日は、義母の10年前の命日でもあります。
きっと、どちらかが望んだことなのかも知れませんね・・・・・

義父のことはこれからも思い出すことはあるでしょうし、またそれは故人への供養ともなるので
記事にさせて頂くことを御了解ください。

今から、30数年前の事です。
義父とは、家人と一緒に暮らし始める三日前に初めて会いました。
娘(奥さん)の選んだ男(私)だから心配ないだろうとの事で会わずに居たらしいのですが、
義母の「娘の旦那の顔を知らないのは流石にまずいでしょう」の言葉に渋々と納得したしたそうな・・・
これは照れ屋の義父ということもありますが・・・・
先日、私の娘が彼氏を紹介するので会って欲しい、の時に、
義父の気持ちと同じになったなー、と感慨深いものがありました。

30年前のその日、一通りの形式的な挨拶が済んだ後、義父が「Bクン、麻雀はやるのかね?」
多少、見様見真似で牌の並べ方くらいは知っていましたので二つ返事で卓を囲むこととなりました。
メンバーといえば義父、義母、そして奥さん、わたし・・・・。
娘さんを頂く挨拶後に麻雀で卓を囲む・・・・常識ではありえないですね(笑)
その後も、度々訪問しては、卓を囲むこととなりました。
それは同居を始めてからも変わりなく、お昼でも一緒に食べよう、の電話は麻雀のお誘いでした。
当時、けっして豊かではなかった二人には昼食代や夕食代が浮くので助かっていました。
そして何よりも義父のサッパリとした性格、苦労人の醸し出す独特の穏やかな人柄と共有する時間が
心地良かったのです。

「Bクン」とクン付けするのは、最後まで変わりませんでした。50男に「クン」は、こそばゆいですが、
義父の暖かさや心遣いが伝わってくるようで嬉しかったです。

義父は旧国鉄、日本国有鉄道の機関士でした。
職業病と言ってもいいでしょう、走行中は風に晒される蒸気機関車、風圧の所為で片方の耳は
殆んど聞こえない聴力になってしまいました。
この道、ひとすじの機関士でした。知り合った当時は、既に退職し悠々自適な生活・・・・
いやいや独学で数学を勉強し小さいながらも数学専門の学習塾を営んでいました。
当地にも進学校が二校程存在しましたが、「Sさん(義父)の塾に行ったコは全て合格している」との
クチコミで一時は、20人近い「生徒さん」を抱えるまでになりました。
わたしも塾の資料・教材のガリ版刷りを手伝わされた事も何度かありました。
この塾は娘が進学高に合格するまで続きました。娘が受かったことを何より喜んでくれたのは義父でした。
義父の「もう、良いだろう・・・」の言葉と共に塾を閉めたのは、義父75歳になる春でした。
義母に後で聞いた話によると、娘が進学校に合格したら辞めようと、決めていたそうです。

この文を書いていても、次々と義父との思い出が甦ってきます・・・・
人の死は悲しく寂しいものです。でも思い出はいつまでも色褪せません。
義父と過ごした時間、義父から聞いた話は、わたしの宝物です。

さて明日からは日常の始まりです。
そして来月はお彼岸でもあります。


「Bくん、クルマを停めてくれ!あそこの今川焼き、美味いんだ。買ってくる」
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by boxycat | 2009-08-26 16:54 | 無題